死にはしない


 しばしば私は、どうして動物学を修めるようになったかと質問される。
 これは大変な難問であり、自分のどこを捜したって、正解などありっこない。人はしかし、質問によって答を得て、それで納得しようとするようだ。
 たとえば私が東京に事務所を作ると、訪れてきた人ほたいていこう訊く。
「北海道と東京とどんな割合ですごしているのですか」
「さあて」
 私はそこでげんなりしてしまう。
 今月はどうだったかな、先月は〜などと心の方で反応し始め、ついに計算がつかなくなって疲れ果ててしまうからだ。
 外国に二カ月とか三カ月の単位で滞在することもあれば、沖縄に出掛けていることもある。
ペンを片手にほっつき歩く人間の活動など、どんな割合で、といった質問でくくれはしないのだ。
 次に多いのが、
「今、動物は何頭いらっしゃいますか」
 終りが敬語になるのがふるっている。
「で、何種類?」
 それから次に、
「どうしてそれほど動物好きになったのですか?」
 と、続いていく。
 そういった質問にうんざりしていて、人間商売をやめたくなるほど嫌っているのが分らないから不思議である。質問、質問、質問によってのみ会話を進める人が多くなったのにはあきれはてる。これまた、本当のインテリジェンスを育てる教育がなされていないせいだろう。
 会話というのは、無理なくすっと入って、知らぬうちに核心に入っているのがよい。そのような話術は、今、消えようとしていると思えてならない。
 情報をストレートに提供し、短い時間で、あっという間に何かを紹介してしまおうというテレビ文化のなせる業かも知れない。
テレ番組には、構成屋さんという人たちがいて、たとえばショー番組に私が写るとすれば、
『動物王国の国王であり‥‥:』
から始って、現在、タヌキが何匹、馬が何頭、などという問答が頭にちゃん書こまれている。
「こんなことを喋る約束ではなかったはずですが」
と言うと、
「あなたのことを知らない人がたくさんいますから」
と、無視されてしまう。
常に平均値を出そうとするので、会話に味がなくなってくるのだ。人と人が出会った瞬間の言葉の美しさがなくなってしまう。
 これはまた、家庭での会話の喪失も関係している。
 夕御飯の仕度にとりかかって忙しくなる母親は、
「それ、××が始まりますよ」
 幼児をテレビの前に据えてスイッチをひねるのだ。
 夕飯を食べている時すら、テレビをかけっばなしの家が多い。
 だから、どうなるのか。
 子供が食物に興味を失っていく。
 何年か前に肥満児が問題になったけれども、それよりも深刻なのは、文明国での、子供の栄養のかたよりである。
 なによりもまず、子供が食べなくなった。
「さ、早く食べなさい」
「なにをぐずぐずしているのよ」
 などと叱られる。
「残さずに食べなきゃ駄目よ」
「ほら、野菜も食べねば」
食卓は、愉しい会話の場と言うよりも、まさに戦争である。ときには父親が目に余って叱りつける。
「食べないとゲンコツだぞ」
そのような展開である。
子供がアーンと泣いておしまいになる。
 母親は、出来ることならもめごとを起こしたくないものだから、ついには子供の好みに合わせた料理をつくろうとする。
 ハンバーガー。
 フライドチキン。
 カレーライスにスパゲッティ。
 これはもう、日本だけではないのだそうだ。アメリカもしかり(これほ本家本元か)、イギリスしかり、オーストラリアまでそうであった。
 ステーキの国、オーストラリアで、子供はケンタッキーフライドチキンを欲しがるのだそうだ。
 また、三つの戦争というのがある。
 一つは子供を朝、起こすこと。
 二つめは、食事を残さず食べさせること。
 三つめは、寝かせつけること。
 どこでもそうなのである。
 飢餓を経験したおぼえのある親たちは、びっくりし、とまどってしまっている。
「おれたちの子供の頃ほ……」
 と、ついこぼす。
「御飯時が待ち遠しかったものだ」
「好き嫌いを言ったら生きてて行けなかったものなあ」
「飯粒を一つでもこぼすと、こわいおじさんがいて、これを作るお百姓さんの苦労を考えなさいと叱られたものだった」
「もっと食いたいという顔をすると、外地で闘っている兵隊さんのことを考えなさいと言われたものだよね」
「豊かになり過ぎるの考えものだ」
「と言って、昔のことを持出すと、大人はそれだからいやだと嫌われるしね」
「どうもいかんな」
「でもねえ」
「うん、何とかしなければ」
「この前のテレビ番組を見たかい、ほら、今の子供が弱くなっているって話」
「ああ、あれはショッキングだったな∵骨なんか、もろくて、子供が廊下でハチ合せをしただけで、信じられぬ箇所がポキリと折れるそうじやないか」
「団地でだってそうだよ。高さ60センチの平均台と言うか、通路と言うか、----ほら、子供は、ちょっと高い所を、両手を広げてバランスをとりながら歩くのが好きじゃないか。それでさ、自治会で遊園地をつくる際にこしらえたら、とびおりて、足を折る子が続けて三人出ちゃってね」
「ふうん、そこまで行ったか」
「とりこわしたけれども、つまり、爪先から降りて、膝をクッションとして使わないと言うんだよ。足を棒のようにしてドターリと行くんだ」
「なるほど」
「おれ、事故を聞いた時、おれんちの子が危ないと思ったもんで、設計が悪い、下がコンクリートだから悪いんだ、そんな危険なものとりこわしちゃえと思ったよ」
「ふんふん」
「しかし後で考えると、危ないからこわすという考えがいけないんだ」
「そうだ、そうだ」
「池があったら、まわりに囲いをしなければならぬという考え方がいけない」
「もっと鍛えなければ」
「跳び降りて骨を折ったら、次には折らぬように降りてみよ、という強い態度が必要だと思うよ」
「賛成だな」
「大体、今の親は子供に甘すぎる」
「ことなかれ主義だ」
「ようし、これからはビシビシ鍛えてやるからな」
 会話は、以上のように続いて行き、疲れ果てているナイスミドルは、ほろ酔いかげんでご帰宅あそばす。
 骨が弱いのほ、割と単純な理由による。運動不足と栄養のかたよりである。
 最近の母親は、栄養学などをかじっていて、何カロリー、これにはビタミンが含まれると計算する。また、そのような計算がもとになっている料理の本によって食卓を飾るのだ。
 しかし、話を野菜に限れば、余りにも人工的に栽培された野菜には栄養がすくない。見掛けはきれいだが、水ぶくれの味のうすいものでしかない。
 肉だってそうだ。
 はやく大きくしようとして、運動させないようにして、ただただ肥らせる。かくてこれ水っぽい、濃く味つけしなければ食べられないものが生産される。
 速成肥育をされた家畜からは、いわゆるモツ、内臓など、売りものになるようなものがとれないのだそうだ。腸は薄く、子宮はとけているかと思えるほど小さくて薄いという。
 運動不足は、そこら辺りから始っているのである。


 食べ物がおいしくないから、子供の味覚が育たなくて当り前である。
 そこへきてテレビだ。子供の気持ちは、どうしたって画面の方に行ってしまう。
 食べる際には、食べることに集中しなければならない。そんなごく基本のことが、現代では守られていない。
 おいしければ、自然と感謝の気持ちもわいてこよう。味というか、食物の手触りと言うかをそれをじっくり、静かに噛みしめることが大切なのだ。
 作家はたいてい、何かの形で食べるもののことを書く。食物について書かない作家は一人もいないと言っていい。
 ある老大家が、しみじみとこう言われるのを聞いたことがある。
「作家のよしあし? それは食物について書いたものを読めば分るよ。いい作家は、食べるものをちゃんと食べている」
 人生について記さなければならないものが、食べるものの味を深く味わえなくてどうするかと言っているのである。
 むろん思想や知識も大切であるが、人格とか個性をつくるものは、生きるために摂取しているものを、どのくらいの深さでとらえているかということだ。
 水を飲む。
 ご飯を食べる。
 空気を吸いこむ。
 その一つ一つが、心にどれほどインパクトを与え続けているかで、人の成長ほずい分違ってくる。
 いつだったか、精神の幅と言った。底力とも言った。
 これを育てるには、野性的であればあるほどいい。せめて十歳までは、冒険があり、清らかな大気があり、小鳥の歌があり、太陽が美しい所で子供を育てたいものだ。それらが子供の幅をつくっていく。
 普通にあって、有難さを忘れてしまっているものが大切なのだ。
 次に会話。
 人をそらさず、切りつけず、愉しい会話が出来るようでなければならぬ。
 シナリオ風に書いてみよう。
 ある日の食卓。
 家族四人。両親、その子二人。
ダイニングキッチン。
正面にテレビ。大相撲が映し出きれている。
父「おい、マサ坊、学校どうだった?」
その子、正夫「うん」
父「昨日、授業参観に母さんが行ったら、お前、よそ見して叱られたんだそうだな」
弟「しっ」
テレビで、大関と前頭二枚目の取組が始っている。皆、思わず注目する。
 人気大関が負けてしまう。
正夫「ちえっ、しょんあるめえ」
弟「あれじゃあね」
正夫「立会いが悪かったもんな」
父「正夫!」
正夫「うん」
父「どうなんだい、どんなつもりなんだ」
正夫「うん」
 スロービデオが始る。
弟「あ、兄ちゃん、ほらほら、あいつずるいなあ。ユルフンだったんだ。だから大関が力が入らなかったんだな」
正夫「あいつは、いつもそうなんだ」
父「正夫!」
正夫「はい」
父「テレビを消しなさい」
母「あなた、お代りは。…‥なにも、食事の時にそんな話なさらなくっても」
父「言ってくれと頼んだのはお前の方じゃないか」
母、それに構わず、
 「さ、二人とも、はやく食べなさい。そら、そう、ニンジンをどうして残すの。ニンジンにはビタミンDがあるから、食べなければといつも言ってるでしょう」
子供二人「はーい」
 箸の先で、きたないものでも扱うようにしてニンジンを突きさし、しぶしぶ口に運ぶ。
テレビ、大きく叫ぶ。
「さあ、がっちり両まわしを引合いました。優勝をかける大一番です」
 家族一同すっかり機嫌を直して画面に喰入るようにのぞきこんでいる。
 ENDマーク。
 ま、こういった次第である。
 たとえば、父親と子供二人が釣りに行った後ならどうだろう。
 ある日の食卓。
 テーブルの上に、ハゼの空揚げが盛られている。母が一尾つまんで口に入れ、
「おいしいわ」
父「どうだ、おいしいだろう」
母「これこそ獲れたてですものね」
正夫「ね、ね、母さん。父さんったらね、大きな奴をそこまで釣ってて逃げられたらね、慌ててつかまえようとして、船から落っこちそうになったんだよ」
母「まあ」
正夫「ずぶ濡れさL
母「なあんだ、それで濡れてたの」
弟「それでね、惜しかったなあ、今のは肥ってておいしそうだったんだがね、だって」
全員、笑う。
父「こいつ!」
正夫「肥ってて、母さんみたいと言ったんではなかったっけ」
全員爆笑。
弟「お代り」
正夫「僕も」
父「おいおい、食べ過ぎてお腹をこわすなよ」
二人「はーい」
父「お前たちには、おれの半分しか食う権利はないんだぞ」
正夫「そうだなあ」
弟「ね、父さん。どうやったら、あんなに釣れるの」
母「へーえ。父さんって、あなたたちより上手いの?」
正夫「残念ながら」
 と、腕を組む。
父「こう竿を持つだろう」
 父、箸を片手で釣竿のように構える。
二人「うんL
父「手にピクンと感じがあってから合せるのは普通」
二人、目を輝やかして聞入る。
父「二人とも箸を持て」
二人「はーい」
 父、さわるふりをして、
父「どうだ」
二人「なーんにも」
父「これでどうだ」
二人「わかんないなあ」
 父、そっと二人の箸に指でさわる。
正夫「あ」
弟「僕も」
父「どんな感じだった?」
弟「もぞもぞっとした感じ」
父「それだよ。それが釣りのコツなんだ。もぞもぞがきたらだな」
母「あなた、おつゆがさめます」
父「あ、うん」
母「あなたたち、もういいの」
二人「ふうっ」
 ため息をついて、もうすこしと言い、ハゼを頭からかじり始める。
 ENDマーク。
 このようにはなかなか行かないけれども、会話にほ、心が通い合うものがなければならぬ。
 そして、最も会話がはずむのは、共通の体験について語る時である。
 忙し過ぎる父親は、子供と語り合う閑がないし、ましてや遠に遊んでやることはない。それどころか、会社での不快を忘れるためにナイターの中継に夢中になっている。
「変だなあ」
 と、ある人が言う。
「外国は会話を愉しむ所が多いぜ。それでどうして子供が変になるんだ」
「生活に余裕が出来すぎてだな、いや、というより、夫婦の愉しみを追求するんだな」
「と言うと?」
「パーティに出掛けるんだよ」
「なるほど、するとべビーシツターか」
「勝手にやりなさいだ」
「うーん」
「今度は、会話を豊富にするため、映画に行くし、音楽会に行くし、いや、大変なんだ」
「なるほどねえ」
「文明というのは、手に負えない化けものになりつつあるよ」
「まったくだね」


 話が横に横にそれて行ってしまった。言いたいことが多いので、どうしたってそうなってしまうのだ。
 おまけとして最初の質問に答えておこう。子供の頃から、私は動物がきらいではなかった。
自分の身長より大きな蛇を見ると、血がさわいで、追いかけねば気が収らなかった。
 しかしだからと言って、動物学を専門に修める所へ進もうなど、夢にも思っていなかった。
 小さい境から夢見がちな少年であり、詩や歌の方が好きだった。
 大学に入って、いよいよ専攻を決める際のクラスの担任の先生が、かの有名な沼野井春雄教授であった。
 私は先生の受験参考書を読んだ方である。だから、ずっと以前から知っている気になっていた。
 先生は、頭の毛が薄くて、上へ行くほどこう大きくなっている感じであり、中に、ノーミソがたくさん詰まっている実感があった。
 話術の名人で、たっぷり九十分ある授業が一つも長くなかった。
 次から次へと面白い話がとびだしてくるのである。先生の話からヒントを得て、私はいくつもエッセイを書いた。
 その頃は就職難であり、
『大学は出たけれど…‥・』
 と、嘆くものが多かった。
 いい所、いわゆる先へ行って困らない所に就職するために、成績表に『優』の数を増やそうとするものが目立った。
 好きなように生きたいと願っていた私にだって不安はあった。川の流れにそって泳ぐ方が楽である。
 いよいよ志望を決める段になって、数学の先生が、貧乏で食えないからと自殺されたのにはショックを受けた。今では想像も出来ないけれど、当時はそうだったのだ。
 私は悩んだ。
 すると、Kという友だちが、
「おれ、今日、沼野井さんとこへ行くけどこないか」
と、誘ってくれた。
先生は親分肌であり、学生が遊びに行くのを好んでいるという噂があった。
でも、いくら噂があるといえ、教授の家である。行けば薫りであり、かた苦しいのは目に見えていた。
「そうだなあ」
 生返事をしているとKが、
「SやNも行くんだよ」
「へーえ、あいつらが」
「Tもきたいと言ったな」
「面白い、じゃ行くか」
「そうしようよ」
 Kは、後に矢張り、動物学科に進むようになった。
 私たちは電車に乗って、大挙して押しかけた。教授は、
「やあ、きたか」
 にこにこと出迎えて下さった。和服の着流しであった。
 「昔ね、熊さんという採集の名人がいて、おれはそいつをいじめようと、こいつは見つからぬだろうという動物の名を黒板に書いてておくと、ちゃんと持ってきてくれるんだなあ、いや、大変な男だったよ」
 例によって、先生の独演会であった。
 やがて夕食になる。
「おれは、学生には酒は出さんよ。その代り食ってくれ」
 貧乏学生の□には入らぬ最大級のもてなしであった。
 そのうち、誰かが真剣に訊いた。
「先生っ動物学をやって食えるでしょうか」
「え……」
 先生はしはらく、ポカンとしておられた。その時の瞳の色を、私は忘れることが出来ない。
「就職口もないと言いますし、中学校の先生になるのは厭ですし」
 と、その生徒は説明した。
 すると先生がきっぱりと言った。
「君、死にはしないよ」
 それで一座はしんとした。
 死にはしない……
 それは確かに名言であった。
死ぬまではなかなか大変てある。窮すれば通ずで、何とかかんとかして食ってはいけるものだ。
私たちの頭の中には、いつも将来の漠とした設計がある。家を持って、車を持って、何歳になったらこういう生活をしなければなぬという図面がある。
 それが……死にはしないという先生の一言で吹っとんでしまった。
 ……ようしそれなら、思い切って、就職口がまったくない所に行ってやれ。
 そう思ったのも事実である。
 何を専攻するかという大切な岐路で、もし沼野井先生にお目にかからなかったら、またもしKがあの日、私を誘ってくれなかったとしたら、私は多分、まったく違った道を歩いていたであろう。
 先生が、生徒に与える影響は、実に大きいものである。
 それからもう一度、専攻が決ってから先生のお宅にお邪魔した。今度は、先生の方から招いて下さったのだ。
「君たち、動物をやるんだそうだね。ま、しっかり勉強してくれ」
 先生はそう仰言って、好きな道を自分の力で歩む幸福について、一時間半ばかりとうとうと語られたのであった。それは丁度、授業の時間と同じだった。
 死にはしない……確かにそうだった。でも私ほ、死ぬ目にあった。先行き、給料の貰えるあてがなく、ただひたすら勉強するという手応えのなさは、やはり辛かった。同時に、貧乏もしていて、ときどき、本当に死にたいと思ったものである。
 だけども、そういった道を歩いてみていてよかったとは思う。これから先どうなるか分らないけれど、今までは充分に仕合せであった。
 
(「時代」昭利54年6月19日号より54年12月19日号まで連載)