死にはしない


 しばしば私は、どうして動物学を修めるようになったかと質問される。
 これは大変な難問であり、自分のどこを捜したって、正解などありっこない。人はしかし、質問によって答を得て、それで納得しようとするようだ。
 
(中略)

子供の頃から、私は動物がきらいではなかった。
自分の身長より大きな蛇を見ると、血がさわいで、追いかけねば気が収らなかった。
 しかしだからと言って、動物学を専門に修める所へ進もうなど、夢にも思っていなかった。
 小さい境から夢見がちな少年であり、詩や歌の方が好きだった。
 大学に入って、いよいよ専攻を決める際のクラスの担任の先生が、かの有名な沼野井春雄教授であった。
 私は先生の受験参考書を読んだ方である。だから、ずっと以前から知っている気になっていた。
 先生は、頭の毛が薄くて、上へ行くほどこう大きくなっている感じであり、中に、ノーミソがたくさん詰まっている実感があった。
 話術の名人で、たっぷり九十分ある授業が一つも長くなかった。
 次から次へと面白い話がとびだしてくるのである。先生の話からヒントを得て、私はいくつもエッセイを書いた。
 その頃は就職難であり、
『大学は出たけれど…‥・』
 と、嘆くものが多かった。
 いい所、いわゆる先へ行って困らない所に就職するために、成績表に『優』の数を増やそうとするものが目立った。
 好きなように生きたいと願っていた私にだって不安はあった。川の流れにそって泳ぐ方が楽である。
 いよいよ志望を決める段になって、数学の先生が、貧乏で食えないからと自殺されたのにはショックを受けた。今では想像も出来ないけれど、当時はそうだったのだ。
 私は悩んだ。
 すると、Kという友だちが、
「おれ、今日、沼野井さんとこへ行くけどこないか」
と、誘ってくれた。
先生は親分肌であり、学生が遊びに行くのを好んでいるという噂があった。
でも、いくら噂があるといえ、教授の家である。行けば薫りであり、かた苦しいのは目に見えていた。
「そうだなあ」
 生返事をしているとKが、
「SやNも行くんだよ」
「へーえ、あいつらが」
「Tもきたいと言ったな」
「面白い、じゃ行くか」
「そうしようよ」
 Kは、後に矢張り、動物学科に進むようになった。
 私たちは電車に乗って、大挙して押しかけた。教授は、
「やあ、きたか」
 にこにこと出迎えて下さった。和服の着流しであった。
 「昔ね、熊さんという採集の名人がいて、おれはそいつをいじめようと、こいつは見つからぬだろうという動物の名を黒板に書いてておくと、ちゃんと持ってきてくれるんだなあ、いや、大変な男だったよ」
 例によって、先生の独演会であった。
 やがて夕食になる。
「おれは、学生には酒は出さんよ。その代り食ってくれ」
 貧乏学生の□には入らぬ最大級のもてなしであった。
 そのうち、誰かが真剣に訊いた。
「先生っ動物学をやって食えるでしょうか」
「え……」
 先生はしはらく、ポカンとしておられた。その時の瞳の色を、私は忘れることが出来ない。
「就職口もないと言いますし、中学校の先生になるのは厭ですし」
 と、その生徒は説明した。
 すると先生がきっぱりと言った。
「君、死にはしないよ」
 それで一座はしんとした。
 死にはしない……
 それは確かに名言であった。
死ぬまではなかなか大変てある。窮すれば通ずで、何とかかんとかして食ってはいけるものだ。
私たちの頭の中には、いつも将来の漠とした設計がある。家を持って、車を持って、何歳になったらこういう生活をしなければなぬという図面がある。
 それが……死にはしないという先生の一言で吹っとんでしまった。
 ……ようしそれなら、思い切って、就職口がまったくない所に行ってやれ。
 そう思ったのも事実である。
 何を専攻するかという大切な岐路で、もし沼野井先生にお目にかからなかったら、またもしKがあの日、私を誘ってくれなかったとしたら、私は多分、まったく違った道を歩いていたであろう。
 先生が、生徒に与える影響は、実に大きいものである。
 それからもう一度、専攻が決ってから先生のお宅にお邪魔した。今度は、先生の方から招いて下さったのだ。
「君たち、動物をやるんだそうだね。ま、しっかり勉強してくれ」
 先生はそう仰言って、好きな道を自分の力で歩む幸福について、一時間半ばかりとうとうと語られたのであった。それは丁度、授業の時間と同じだった。
 死にはしない……確かにそうだった。でも私ほ、死ぬ目にあった。先行き、給料の貰えるあてがなく、ただひたすら勉強するという手応えのなさは、やはり辛かった。同時に、貧乏もしていて、ときどき、本当に死にたいと思ったものである。
 だけども、そういった道を歩いてみていてよかったとは思う。これから先どうなるか分らないけれど、今までは充分に仕合せであった。
 
(「時代」昭利54年6月19日号より54年12月19日号まで連載)