逸脱行動の意味するもの  青少年の逸脱行動が増えているという。たとえば、中・高校生の「援助交際」などというこ とが、最近はずいぶんとマスコミに取りあげられた。名前は何と名づけようと、これほ少女売 春であり、きわめて大変な問題である。それとも関連しているが、麻薬の問題も広がりつつあ る。これまでよりも、手軽に安く手に入るルートが出来てきたこともあって、麻薬に手を出す 青少年が増えている。かつてであれば、売春も麻薬も、その世界に入るにほ、何らかの「一線 を越える」感覚を伴ったであろうが、そのようなことがなく、一見普通に見える生徒たちが、 簡単に流れこんでいくところに、大きい問題点があると思われる。 ここに青少年の逸脱行動を取りあげているが、これは「反抗」とどう異なるのであろう。第 一次反抗期、第二次反抗期などという用語が一般によく知られているように、人間の成長・発 達の過程において、青年期にほ何らかの「反抗」が生じるのほ、むしろ当然視されていた。現 在の青少年は、なぜあまり反抗しないのだろう。そして、逸脱は反抗とどのように異なってい るのだろうか。  後にも述べるように、青年期ほ人間にとって実に困難な時期である。何ともやりきれない、 何か破壊的なことをやってみたい、と感じる。そのような爆発的なエネルギーを向けていく、 一つのよい方法ほ、既成の体制に対して反抗することである。その典型的な例を、一九六〇〜七 〇年代の学生運動に見ることができる。社会をよりよくするというスローガンのもとに、相当 に破壊的行為をすることが許容される。「権威」とみなされているものに、正面からぶち当たる ことができる。 しかし、現在はそのような反抗をする方策がなかなか見当たらない。かつての学生運動の挫 折が示しているように、単純にイデオロギーを武器にして反抗してみても、結果はないに近い ことがわかってしまった。もはや、イデオロギーは反抗の武器にほならない。もちろん、現在 の社会も体制も、改革すべき点をたくさんもっている。しかし、その改革をほんとうに志すな ら、地道で長い努力を必要とし、瞬間的に燃えあがるような青年の改革熱によってほ何もでき ないことである。 反抗は、正面からのぶつかりがあるので、うまくなされるかぎり建設的な結果が得られる。 これは、現在の日本の家庭でも、生じていることである。ところが、青少年が誰でも体験する、 「どうしようもない」感情を、反抗という形で生きることができないと、どうしても「逸脱」 という形が増加してくる。それは秩序を破るという意味で、反抗につながるものであるが、正 面からのぶつかりではなく、逃げ腰のところがある。反抗ほ、自分のはうが正しい、大人が間 違っているという形で戦うことができるが、逸脱のほうは、それほどの強い主張はできない。 せいぜい 「やってもいいじゃないか」くらいしか言えない。  逸脱行動でも暴走族のような場合は、そこに攻撃的な要素がある。社会に迷惑をかけたり、 警察につかまりそうになったり、スレスレの行為をすることによって、反抗的気分を少しでも 味わうことになる。ところが、最近の麻薬や援助交際などは、「遊び感覚」という表現があるよ うに、そんなに強い力をもって行動するのでほなく、ふらふらと行動してしまう。それが 「悪 い」という意識があまり見受けられない、というところに特徴がある。なかには、一つのファッ ションとしてやっているのではないかとさえ思われるときがある。  かつての反抗的な青少年に対して、適当なぶつかり合いを体験しつつ、大人の熱意や善意が 伝わるように努力すると、うまく立ち直っていく、という指導方法を身につけた人たちが、こ のような逸脱行動をする青少年にどのようにかかわっていいのか、わからなくて困ってしまう。    思春期の意味  人間にとって、子どもから大人になるというのほ大変なことである。子どもがそのまま大き くなって大人になるのでほなく、相当な質的変化があって大人になるのだ。毛虫が大きくなっ て大人になるのではなく、それほ蝶になってこそ大人と言えるのである。そして、そのような 大変革を行なう時期として、さなぎという特殊な時期があるのだ。人間の思春期はこれに相応 する。  さなぎが固い殻に守られ、じっと動かずにいる間に内部で大変革が生じるように、思春期の 子どもたちにいかにして 「さなぎ」 の時期をうまく過ごさせていくかについて、昔から人間は いろいろと知恵をはたらかせてきた。文化により社会によって、その方法はさまざまであるが、 共通して言えることは、ある部族とか地域社会などが、集団として、それを行なってきた、と いうことである。他にすでにしばしば論じているので、ここに繰り返すことはしないが、子ど もを大人にするための儀式は、すべて文字どおり命がけで行なわれた(拙著『大人になることのむ ずかしさ』岩波書店参照)。与えられた試練に耐えられず死ぬ者も殺される者もあった。部族の大 人たちの 「守り」 のなかで、子どもたちは凄まじい体験をし、大人になっていく。  昔の日本にほ若衆宿などというものがあった。ここに集められた大人になるための候補者た ちは、厳しさのなかにも、ある程度の逸脱行動を認められながら成長していった。「さなぎ」の 時代は大変なので、ある程度の逸脱が不文律的に許容されているところが特徴的なのである。  それでは、昔からあったこのような工夫や方策を、現在はどうして放棄してしまったのだろ う。その原因の根本は、集団よりも個人を大切にする考えに変わってきたからである。  集団が子どもを大人にする方策をまかされると、どうしても個人差を認めず、集団に都合の いい大人をつくろうとする。たとえば、かつての日本で、きわめて優秀な才能をもった青年で も、病弱であるというだけで、軍隊の訓練によって、殺されたも同然の形で死んでいった人が ある、と思われる。成長の速度が人より遅い者も認められないだろう。  個人を大切にする考えが強くなるにつれ、われわれは集団による方法をやめることにした。 家族も大家族という集団によって子育てをするのではなく、若い夫婦が自分たちの考えにより、 子どもの個性に従って、大人にする、という考え方に変わってきた。これは一つの進歩である。 しかし、このことによって両親の責任がかつてないほど増大したことを認識しなくてはならな い。昔は大家族や地域社会などの集団が工夫をこらしてやってきたことの代わりに、両親が、 自分の子どもが「さなぎ」 の時期をどう乗り切っていくか、という難しい仕事に関して、責任 を負うことになった。といっても、それはあまりのことなので、学校教育や地域社会もある程 度、協力はする。しかし、子ども一人ひとりの個性に合わせて「大人になる」 のを助けていこ うという姿勢は必要である。  話が少し先走ってしまったが、思春期というのが人生にとっていかに大変な時期であったか ということ、それを越えるための方策を人間は昔からいろいろ行なってきたが、現在はそれを 放棄し、個人とそれを取り巻く人々に、それがまかされていることを、われわれはよくよく知っ ておかねばならない。  思春期の子どもの心の底では、大暴風雨が荒れ狂っている。本人たちほ何だか変だと思うが、 言葉ではうまく言えないので、黙りこんでしまうか、自分でもなぜそれをしたのかわからない ような馬鹿げたことをしてしまったりする。今、立派な大人になっている人でも、もし思春期 のことを記憶しているなら、誰にも言えないような馬鹿なことや、悪いことをしたことを思い 出すのではなかろうか。    守りのなかの荒れ  思春期には大なり小なり、何らかの「荒れ」が起こるのが普通なのだ。それが適切な「守り」 のなかで生じてこそ、大人になる変革につながっていく。この守りは家庭、学校、社会などが 受けもつのだが、以前に比べて家庭の重みが大きくなってきているのは、すでに述べたとおり である。  ここに述べた「守り」を単純に「管理」などと考えると大失敗をしてしまう。後にも述べる ように、大人は思春期の子どもを守る壁にならなければならないが、その壁には血が通ってい なければならない。「管理」を考える人は、子どもを物や機械と同じような存在に見立てて、上 手に操作したり、支配したりしようとする。それは、結局のところ、子どもの大爆発を誘発す るだけになる。  子どもが反抗してくるのなら、それとぶつかる壁にもなれようが、「遊び感覚」でふわふわと 逸脱している者に対しては、手のほどこしようがない、と思われるかも知れない。  これに関して、援助交際をしている少女たちにインタビューをした人から、次のような話を 聞いた。何度か会って親しくなってきたとき、ある少女が「私たちは、別に物や金が欲しいか ら、こんなことをしているのと違うよ」と言ったという。それでほ何のためにと問うと、「居場 所が欲しいの」と言った。  「居場所」とは何であろう。自分がちゃんと守られていて、そこでは完全にリラックスできる 場所である。自分自身であることを受け入れてくれる場所である。彼女にとって、家庭も学校 も居場所ではなかった。唯一ほっとできるのほ、街にたむろする仲間のなかであった。しかし、 その仲間になるためにはブランド品を身につけねばならないし、援助交際をするより仕方な かった。  援助交際を独りでこっそりとしてお金を貯めている少女など、まずいないだろう。彼女たち は必ず仲間をもっている。その仲間を守りにして「荒れ」ているのである。麻薬も不思議な一 体感を感じさせる力をもっている。麻薬を仲間で吸引することによって、彼らは「仲間意識」 によって守られていることを強く感じる − と言っても、まったく一時的なことであるが − のである。  このような「遊び感覚」的な少年少女たちは、自分の心のなかに生じていることが何かわか らないまま、それを反抗という形にもっていく力もなく、逸脱しているので、ときには、大人 がしっかりとした血の通った壁として前に立つと、あっさりと普通の状態に返ることがある。 思い切った叱責が成功する。しかし、これがいつも通用するとはかぎらない。  彼らのなかには、「守り」のなさに絶望しているような子がいる。そのような子どもに、大人 が守りとなり得ることをわかってもらうのは大変だ。叱責してもそっぽを向くか、よけいにひ どいことをするだろう。ときにほ、大人の言うことを聞き入れて、よくなったなどと思ってい ると、とんでもない 「裏切り」 にあう。しかし、これは、裏切りなどではなく、大人の守りが どれほど本物であるかを試している、と見るべきであろう。  思春期の荒れの意味がわかるからといって、それを無際限に許容してしまうのはよくない。 そうなると、子どものほうが自分で自分を制御できなくなって、むちゃくちゃをしてしまう。 そうなってしまうと、簡単には止めようがない。荒れの意味がわかりながらも、これ以上は許 さないという、明確で堅固な態度をとることが必要である。これが結局のところは、子どもた ちを守っていることになるのだ。子どもたちの内界から生じてくる破壊力に対して、それに潰 されてしまわないように、大人が守ってやっているわけである。このような堅固な壁として、 子どもたちの前に存在することが、親にも教師にも必要である。    関係の深さ  壁として立っているにしても、その壁ほ血が通ってないといけない。言い換えると、子ども がぶつかってきてもびくともしない強さをもつとともに、子どもたちとほ深い関係でつながっ ていなくてはならない。  ところが、ここに述べている「深い関係」ということが、家族関係を考えてみても、現在で ほ非常に難しくなっている。たとえば、阪神・淡路大震災のときのことである。家屋が倒壊し、 命からがら逃げ出した親と子が別れ別れになり、お互いの安否を気づかいながら避難所にたど りつき、会った瞬間に抱き合って、「生きていてよかった」と涙を流した。後になって、この人 が言われるには、本当に「生きている」とか、「親子の絆」ということを、このときにこそ体験 したので、震災は嫌だが、この貴重な経験ほ忘れ難いとのことであった。  こんな話を聞くと、現在は物が豊富で便利になったために、家庭の間で一体となるような経 験が急に乏しくなっていることに気づく。便利な生活をしているとはいうものの、家族の一人 ひとりが忙しく、あわただしく、一緒になって一つのことをするどころか、皆が集まって食事 を共にすることもない。そのような状況でありながら、親は子どもに対して、個室をつくって やった、塾に行かせてやった、ときにほ家族旅行もした、などなど、いかにお金を使ったかと いう意味では、「できるだけのことをした」などと言うことはできるかも知れないが、ほんとう に家族が一体となって「生きていてよかった」と言えるような経験を一度もしていない、とい うことになる。  昔は、物が乏しかったので、このような点に関しては、はるかに生きやすかった。家族一同 が「食っていける」だけで有り難いと感じたり、ちょっとしたおみやげにも心が踊ると感じた りした。あるいは、山へ出かけて行って、兄弟で山いちごを取ったり、あけびを取ったりして 食べることで、感激することもできた。  もちろん、今のほうが豊かで便利なので、昔よりはよいことに違いない。しかし、それに見 合うだけの工夫や努力をして、深い人間関係を結ぶことを考えねばならない。援助交際をして いる少女たちの家庭は、フツーの家庭だという。親子関係も悪くない。しかし、それほあくま で表面のことで、「生きていてよかった」と言えるようなレベルでの関係がまったくない。そう なると、子どもたちほ思春期になって、何だかわけのわからない気持ちをどこにぶち当てていっ ていいのか、いったい家族ほ自分をしっかりと守ってくれているのか、という点で不安になっ てきて、逸脱行動に走ってしまうことになる。  日本人は対決することが苦手なので、どうしても表面的な平穏を好む傾向が強すぎる。子ど もが何かを買えと言ったときに、「買えない」ということで、対決や対話が生じてこそ、「深い」 関係が出来あがっていくのに、どうしてもお金があるので、無理をしても買ってしまう。表面 的には子どもも喜ぶし、平穏でいいのだが、下手をすると人間関係も表面的になってしまう。 深い関係を結ぶ過程にほ、怒りや悲しみ、苦しみなどの経験が必要である。日本人は経済的な 豊かさを下手に使って、後者の感情を避けていくので、人間関係が深まらないのである。不幸 になるためにお金を使っているような人が多い。  戦後五十年、ほとんど無に近い状況から、ここまでの経済発展をもたらしてきた日本の大人 たちは、称賛されるべきだと思うが、このあたりで、自分たちの生き方を根本的に見直すこと を考えないと、せっかくの経済的豊かさによって、日本人の心が押し潰されてしまうだろう。 子どもたちほ逸脱行動によって、そのことを大人たちに知らせようとしているとも思われる。